武田信玄のこと

奈良田に最恵待遇を与えた戦国の名将 武田信玄

甲斐之国780村のうち、奈良田だけは一群にて一村であった。
諸役が免許されたのは、天文19年6月2日の信玄公の御印判をもって明らかである。


町指定書跡 深沢定富家文書三通

諸役を免除した上に、本税ともいうべき高まで免許したところは、甲斐之国広しといえども奈良田だけである。これ以上の最恵待遇はない。このことを正式に記録の上で認めたのは、宝暦6年の三郡村高帳である。

甲斐国(山梨、八代、巨摩)三郡村高帳(六百六拾九ケ村外奈良田村無高)

となっている。歴史家の間でも、なぜ信玄は奈良田だけを特別優遇したのか、様々な説があり悠久の謎につつまれる。
熱烈な奈良田研究の第一人者、作家の岩崎正吾氏は、武田信玄直属の隠密村だったのではないか、と言う。山越えの尾根道(間道)にも精通し、曲物や下駄等の行商人を装い、全国の諜報活動にあたったのであろう。甲州弁とは違う独特な方言が、他国に行っても甲斐武田の者とはわからず都合が良かったのである。
この説を裏付ける話もある。昭和30年頃、ダム建設のため奈良田村が全戸移転する時、あちこちの家から刀やら短刀が見つかり、大騒ぎになった。ちなみにその時、我が家の天井裏からは、なんと仕込み杖が出てきたのである。
これは面白い仮説ではあるが、地元では、宝生流の謡曲が伝承されていることや、種々の儀式唄、仕来り等から、遠く奈良の都に思いを馳せて、第46代孝謙天皇御遷居の由緒によるものだ、と根強く信じられている。帝の仮宮があったとされる村の高台は王平と呼ばれ、今では帝を奉った奈良王神社が建てられている。周りには、歴代山梨県知事の記念植樹がすでに大樹となり、村人達が参拝を欠かすことはない。